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【アラベスク】  第16章 カカオ革命



第3節 待ち伏せする日 [8]




 寒さで変色した唇にそっと力を入れる。
 緩はいつしか、ヴェールを被った砂漠の女戦士。腹黒い魔女に囚われた悲劇の王子を救うため、剣を手に取り健気に一人で困難に立ち向かう。
 そうよ、こんな寒さなんて、なんでもないわ。
 手袋をしていても悴んでいるのはわかる。そんな両手で突き出された箱を、瑠駆真はまじまじと見つめた。
「正直、理解できない」
「え?」
「たかが礼ごときでこんな行動、普通じゃ考えられない」
 学校で瑠駆真に(たか)る女子生徒や柘榴石倶楽部のメンバーですら、ここまではしない。明らかに不審を募らせる相手に、それでも緩は引かない。
「他の方と同じだとは思われたくなくて」
「同じ?」
「私は別に、先輩に無理な恋心を押し付けるつもりでチョコレートを渡しているのではありません。純粋に、感謝を伝えたいのです」
 そうだ、不浄な下心とは違う。
「だから、そこのところをわかっていただきたいのです」
「律儀にも、程があるな」
「私は」
 緩はサッと顔をあげる。
「私は、人に助けられて礼も返さないような常識外れな人間とは違います」
「それは、誰の事?」
「それはっ」
 思わず美鶴や聡の名前を出しそうになり、寸でのところで飲み込む。
「それは、単なる一般論です」
 興奮しそうになる声を、必死に抑える。
 そんな緩の姿を、だが瑠駆真はそれでも納得ができない。
 お礼ごときで、チョコレート?
 訝しがる相手の心情を読み取り、緩は息を吸った。仕方あるまい。この手札は、できれば使いたくはなかったのだが。
 一瞬躊躇い、だが意を決して口を開く。
「それに、私は、先輩の意思は尊重しているつもり、です」
「僕の、意思?」
 緩は強く頷く。
「先輩の、大迫美鶴、さんへの想い」
 ギュッと、胸が締め付けられる。
「それに、彼女との携帯の写真。いまだに噂が(くすぶ)っているようですが」
 途端に相手が表情を険しくするのを感じて、緩は慌てて続ける。
「私は、彼女の事をふしだらな人間だとか、くだらない下賎な人間だとか、そんなふうには思っていません。先輩が想いを寄せる人が、そんな人であるはずがない」
 嘘だ。本当は先輩は騙されている。
 だが、今はそれを表立って口にする時ではない。
 今この場所で、緩が瑠駆真の、大迫美鶴への想いを咎めても、瑠駆真は絶対に聞き入れてはくれないだろう。恋とは盲目だ。こういう問題は、周囲が(うるさ)く喚けば喚くほど、当人は頑なに拒み続ける。ここはむしろ、自分は味方で、あなたの恋は正しいのだと肯定してあげた方がいい。その方が信頼は得られやすい。
 廿楽華恩の時がそうだった。ひたすらに同意同調することで、緩は彼女の信頼を勝ち取っていった。
「廿楽先輩の件ではいろいろとご迷惑をお掛けしましたが、今は先輩の恋の邪魔などをするつもりはありません。他の方々がどれほど先輩の、大迫美鶴、さんへの恋についてをとやかく言おうとも、私は邪魔をするつもりはありませんし、彼女の存在を卑しいなどとも思ってはいません。それも判っていただきたいと思って、今日はどうしてもそれを伝えたいと思って、待っていました」
 瑠駆真はしばし無言で相手を見下ろしていたが、やがて短く、素っ気無く答える。
「そう」
 頬を切るような、冷気を感じさせる言葉。緩は不安を感じる。その一言で二人の会話が終わってしまうような気がして、このまま瑠駆真がチョコレートを受け取らずに立ち去ってしまうような気がして、そして何よりも、緩の誠意に気付かないままに離れていってしまうような気がして、堪らず口を開いた。
「あの、それから」
「何? まだ何か?」
 億劫そうな声が緩の胸を締め付ける。それでも緩は諦めない。
 こんな事で(くじ)けてはいけない。そんな弱気では、先輩をお助けする事はできない。
「あの、噂の件なのですが」
「噂?」
「はい。あの、先輩が花嫁候補を探しているという」
「あぁ」
 今度こそ瑠駆真はひどく怠惰な声音を響かせる。
「くだらない」
 突き刺すような声は、まるで瑠駆真のそれとは思えない。夢見る乙女が夢に見る王子様になど到底似つかわしくはない、まるで、王子様を貶める路地裏のゴロつきが口にするような言葉。
 嘘だ。先輩がそんな言葉を口にするはずがない。
 緩は必死に頭を回転させる。
 きっとこれは私を試しているのだ。私が先輩にとって本当の味方がどうか、先輩は見極めようとしている。
 そうだ、きっとそうだ。当たり前だ。先輩は王子様だ。地位や権力を手にする者は、それを利用しようとする者によって常に狙われている。危険に晒されているものだ。だから、疑いたくなるのも当たり前なのだ。
 権力者ゆえに周囲を信じる事ができず、心を閉ざしてしまった哀しき皇子。
 なんて心ときめく響き。
 先輩、私は絶対に味方ですよ。
 緩は小さく息を吸う。
「もちろん、私はそんな噂なんて信用もしていません。先輩が好きなのは大迫美鶴さんなのですし。ただ、あまりにそのような噂が真実であるかのように広まっているので、嘘であると、先輩の口から直接確認したくて」
「嘘であるか真実であるかなんて事、なんで君に関係があるんだ?」
「私はただ」
 緩は食い下がる。
「ただ、真実が知りたいだけなんです」
 先輩、私は味方です。先輩の味方です。必ず私がお救いしてみせます。だから私を突き放さないで。先輩、お願い、受け取って。
 胸の内で懇願する相手の心情を知ってか知らずか、瑠駆真はしばらく不動で相手を見下ろしていた。が、やがてスルリと箱を手に掴んだ。
「噂は嘘だ。僕の言葉は信じていい」
 そう言って、驚きで声も出ない緩の横を通り過ぎる。
「礼くらいなら、受け取ってもいい。早く帰れ。風邪を引く」
 ようやく振り返った時、瑠駆真の姿はすでに闇夜に紛れようとしていた。その後ろ姿を、緩はボーッと見つめていた。
 やったっ! 第一関門突破だわ。







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